Vital Signals[ヴァイタル・シグナル]
日米初期ビデオアート上映会 -芸術とテクノロジーの可能性-
Japanese and American Video Art from the 1960s and 70s
1960、70年代――メディアアートのパイオニアたちが挑んだ50の実験の痕跡。
http://www.yaf.or.jp/yma/lecture_hall_info/040/会場:横浜美術館レクチャーホール
京都での事書きたいけど、その前に今日観てきた上映会について忘れないうちにー。
国立近代美術館での『ヴィデオを待ちながら』に続き、初期のビデオアートがどっさり観られる良い機会。20-30年代のアヴァンギャルド映画と、60-70年代のビデオアートで、映像の可能性はほぼ全て汲み尽くされてるとも言ってもいいくらいに、映像の基礎をなすような実験が数多く行われてるんで、映像やる人はこういう機会にちょこちょこ観ておくと良いと思う。面白いアイディア思いついても、結構この時代のと被ってたりするし、その予防のためにも。以下簡単な覚書。
今日は2プログラム19作品を。
aプロ「ビデオ言語論」
コンピューターを使った電気的でテクノロジカルな作品を集めたプログラム。一見、視覚的な実験がメインのように見えるけど、ここでは単なる視覚の戯れというより、むしろ聴くことによって観ることが指向されるような印象を受ける(もちろん、上映という環境の良さがあってこそだけど)。つまり、作品の中で映された、エフェクティブに移り変わるビデオの中の形体や色は音響の助けを借りて存在できてるような、思考の対象となりうるような、そんな印象。このプログラムの中では、特にヴァンダービークの"Strobe Ode"で顕著であるが、例えば抽象的に映し出された色や線だけではただそれだけのものが、海の音や心音によって、バイオロジカルなイメージをなんとか獲得できている。さらに言えば、そこではじめて単純な遊びから抜け出し、ビデオ言語の使い手が作品としての強度を獲得しているとも言える。観客はこの音響体験があるからこそ、そこで観る態度を選択できる。"Strobe Ode"では音響によって例えば胎内のようなイメージも得られるし、松本俊夫の"モナ・リザ"ではSF的な遊び心を感じられる。この「観る態度」という視点で考えた時に最も面白いのが松本俊夫"METASTASIS 新陳代謝"で、これは便器の画像の色が鮮烈に操作され、シンセサイザーの音響が鳴り渡るという作品なのだが、ここでは便器が便器の意味から抜け出して、その曲線が持つビジュアルな可能性が示されている。便器というのは、恐らくデュシャンを意識したものだろうが、ここでのデュシャンとの大きな違いは、観客が便器を便器と認識した後にも上映時間によって拘束されるという点である。観客は便器に対して、まず自分の認識を確認した後、音響と色彩のエフェクトの中で次第にその認識を変化させていく。そこでは誰が用を足すわけでも掃除するわけでもない、便器としての機能は映像的には何一つ与えられず、それどころか色彩とビデオの特性によって、より平面的になっていく。この効果は、もちろん観た人誰もがそう感じるわけではないし、そもそも松本俊夫がそれを指向していたというわけではない(エフェクトによってフィクショナルなイメージを作り出すという点ではその通りであるかもしれないが)。ここで重要なのは、それは何であるという結論付けではなく、その結論は「観る態度」によって導かれているということ、音響が「観る態度」の糧となっていることである。ちなみに、飯村さんの作品群では、この「観る態度」が、観客にではなくアーティストによって行われているのではないか。とすると観客の的としてのスクリーンは、逆に観客を的としていることになる。作品が的でありながら、同時に観客も作品にとって的となっている、というのはアコンチも昔インタビューの中で語っている。
bプロ「拡張する形式」
このプログラムもテクノロジカルという点ではaプロと同じテーマを扱っているともいえるが、ここで集められた作品群は、エフェクティブなものよりも、ビデオの原初的な特徴に言及した構造的でミニマルなもの。ここのプログラムで紹介されている作品は三つの可能性を持っているんではないだろうか。一つ目の可能性としては、見始めて少しすればわかる、それらがどういう構造に基づいて行われているかというアイディアで、これは作品の根幹をなしている思想である。二つ目の可能性としては、観客が構造を理解した後にもひたすらに行為が行われるというしつこさに因るもので、これによって、瞬間的に感じる作品への印象に、だんだんと別なイメージも付与されていく。例えば、飯村さんの「This is a camera which shoot this is a camera which shoot...」と永遠にやり続けたい欲求と、それを観る観客の忍耐とによって起こる。三つ目の可能性としては、構造を行う身体やビデオのテクスチャーに対する印象やイメージの想起で、これは一つ目の可能性のように瞬間的に感じる印象であり、二つ目の可能性のようにアーティストの作家性や身体性に基づいている。(この三点の例をちゃんと挙げておきたいけど眠いから続きはまた明日。とか言って書き途中になってるエントリたくさんあったなあ...。)
ちなみに、上映後に壇上に上がられた山本圭吾さんはご自身の作品を幼稚だとご謙遜なさっておられましたが、僕はそれは良い意味で同意したいと思います。というのは、構造的な作品やミニマルな作品には、ある種の拍子抜けする瞬間が備わっているからで、それは構造を示す行為の単純さから来るものに他ならず、一度その行為を通して構造を理解しさえすれば、現れている行為の簡単さとは裏腹に、驚くほど厳格なものが潜んでいることに気づくはず。だから、厳格さを含む幼稚さであって、明晰でなければ表出しない幼稚さだろうなと感じます。